RoMT.

RoMTは如何にしてシェイクスピアに向かうのか その①

演出家の田野です。

 

『十二夜の、十二人』というコーナーが終わったところで、新しいシリーズ(?)をはじめます。

 

何かというと。。。

かつてとあるところで細々とやっていたブログを読み返してみたところ、

そこにはわりといいことが書いてあるなあと気がつきまして。

・・・いや、いいことというか、、、それは2009年に2週間ほど滞在したロンドンで観た芝居について、

思うところをダダ漏れに書いている個人的な感想文に過ぎないのですが、

でもそこには、今回この2015年に、私たちはどのように『十二夜』に向き合おうとしているのか、

シェイクスピアの戯曲/言葉/テキストをどう捉えようとしているのか、その萌芽みたいなものが

2009年の段階で既に固まっていたんだなあと、自分でもあらためて思った、という話。

 

まあこうして真正面からシェイクスピアに向かっているこのタイミング、

いい機会かもと思いますので、その過去に書いた自分のブログの投稿を転用して、

こちらでご紹介しようと思っております。

 

2009年にロンドンで観た3つのシェイクスピア作品、『ハムレット』『お気に召すまま』

そして『冬物語』についての感想文ですが、そこかしこに、RoMTの『十二夜』にダイレクトにつながるような、

ちょっとしたヒントがあるかと思いますので、それぞれわりと長い文章ですが、ぜひご一読ください。

 

題して、「RoMTは如何にしてシェイクスピアに向かうのか」。

 

ま、ある種の覚悟のようなものでもあります。はい。

 

・・・なお、当時のブログの投稿のままではなく、必要に応じてカットしたり加筆したするなど、

もろもろのエディットが加わっております。また当時の投稿には掲載していた写真等は割愛します。

文字ばかりになってしまってイメージがしにくいところもありましょうが、ご容赦くださいませ。

 

では、さっそく第1回目、です。

 

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 【2009/6/1】 ジュード・ロウ in 『ハムレット』@Wyndham’s

 

6月1日ソワレで観劇。

一応断っておくと、僕はもちろん“批評家”ではないし、どれだけ客観的であろうとしてもこういうところに書くことはつまるところ僕の“主観的な意見”に過ぎなくて、ですから「ふーん、こういうふうに観てるひとがいるのねえ」ぐらいのドライな感じで読んでていただけると助かるわけです。ひとつの真実ではあるかもしれないけれど、そもそも真実なんてものは観るひとの数だけあるわけで、どれを信じるか、あるいは参考にするか、は、そのひと次第。歴史はそれぞれの視点から無限に解釈され捏造されるのです。できることならここから議論を始めましょう、せっかくだから同じ経験に基づいて共有したことを語り合って、それから何かの学びを獲得することができたら、人生は捨てたもんじゃない。そんなふうに思うのです。

と。いうことを前提にした上で。

レスター・スクウェアから程近いWyndham’s Theatreでこの1年間、Donmar Warehouseが製作母体となって4つのプロダクションが上演されましたが、その大トリとなるのが『ハムレット』です。演出にはもともとケネス・ブラナーの起用が予定されていましたが諸事情により降板、ドンマーの芸術監督マイケル・グランデイジが代わりに演出に起用されました。

主演は、ジュード・ロウ。

言わずと知れた映画界のトップ・スター、そしてトップ・セレブのひとり。ジュード・ロウはもともと舞台出身で、今回は7年ぶりの舞台出演とのこと。久しぶりの舞台で演じるのがハムレット、と。

ジュード・ロウを舞台で生で観れる、しかも演じるのがハムレットとなれば大きな注目を集めるのは当然で、公演は早々に完売。きっと日本からもこれを観にいくためにロンドンを訪れる方もいらっしゃることでしょう。かく言う僕も今回のロンドン訪問は、他にいくつもアトラクションがあったとはいえ、この『ハムレット』のチケットがまだ買える!ってことが判明した時点で計画を正式に実行に移したわけです。

いやしかし、ジュード・ロウ。実は好きな映画俳優トップ3のうちのひとりです。最近の映画出演作『マイ・ブルーベリー・ナイツ』『スルース』『こわれゆく世界の中で』はいずれもジュードの役割が魅力的な映画だったし、『クローサー』も良かったし。今回の『ハムレット』も、プロダクションの出来がどうであっても、ジュードのお姿を生の舞台で観れるっていう事実だけでもう十分観とく価値がある!っていうぐらいでした。

でもまあ、結果的には、「プロダクションの出来がどうであっても」というところがバッチリ当たる結果に。。。

開演して幕があがると、紗幕の向こうで天井高くから一筋の光が射している。その先に、片膝を立て、あたかもロダンの彫刻のように顔を床に向け、物憂げに想い込む人間の姿。やがて彼は顔をあげる。天井からの光が「彼が誰なのか」を教える。そこにいるのは、ハムレット(=ジュード・ロウ)。彼は空を見上げ、やがてゆっくりと立ち上がり、どこへともなく消えていく。同時に紗幕があがり、遠くから聞こえてくる最初の声、

「Who’s there?」

客電が落ちてからここまで1分かからずだったと思いますが、この時点で、「あー、この公演(やっぱり)イマイチかもしれない」って予感が走りました。上のように書くと劇的で素敵っぽいシーンなんだけどね。これサービスショットでしかないなあ、と。普通であればハムレットが最初に登場するのは第1幕第2場で、しかもCompanyの一部としてさらっとその場にいるだけです。だからまあこうして早めにかつ「ある程度効果的に」ジュード様のお姿を見せておいた方が、客席は落ち着いて第1幕第1場から舞台をちゃんと観れますから、そういう意味はあったのかも、と。

だけど問題は、既にこの時点で、いくつかの【矛盾】が生じる“可能性”を示唆してしまっていることにある。このオープニングのイメージショットで観客がはっきりと認識することになるハムレット像は、“思い悩み”“ふさぎこんで”“静かに自問自答し”“弧絶した”人物です。彼はこのとき、「とても閉じている」。物語の時間軸の中で、このときの彼はこれから始まるすべての物語の「前」の状態である、と考えるのが一番好意的な見方なんだけれども、残念ながら観客はそれほど愚かではない。常に記憶は、後の出来事を支配するのです、まさに亡霊が示すとおりに。「Remember me」

あの塞いだ姿を観客は覚えているけれど、しかし上演が進むにつれ、私たちはハムレットが「あのように」閉じた人間ではまったくないことに気がつくのです。彼は抱えきれない膨大な想いを、モノローグでは直接的に観客に向けて話すし、他の登場人物がいれば躊躇無く話しかける。相当にコミュニケーション(と駆引き)に長けた人物です。そしてジュードが構築するハムレットは、エネルギーに溢れ力強く、スピーディ。・・・はっきりいってずっと塞ぎこんでるとか、本を読んでるなんての嘘っぱち。だから、物語が進むにつれて、あのオープニングでの姿には「?」がついてまわってしまう。まあ、好意的に受け取れば、あればハムレット自身の“内面”とか捉えられるかもしれませんが。・・・ちょっと無理があるとは思うけど。

で、この最初の1分弱のオープニングが示してしまっていたとおり、このプロダクションに関しては演出的な部分での弱さがあまりにも多かった。どうしてそうなったのかは知る由もないですが、とにかく、結論としては、《ジュード・ロウの『ハムレット』であり過ぎた》ということに尽きるんじゃないかと思う。そしてそれが、図らずも、『ハムレット』という戯曲が何故にこれほどまでに私たちを惹きつけてやまないのかという問いへの明確なヒントになっていると思いました。

ピーター・ブルックの言葉を借りるならば、「Hamlet is about Hamlet」。『ハムレット』は紛れもなくハムレットについての芝居で、『ハムレット』が上演されるとき、ハムレットの存在は言わば「Centre of the Universe」。それは確かです。しかし、ハムレットが世界の全てではないし、まして全ての世界を規定する存在でもない、ということは覚えておかなくちゃいけない。この世界にはハムレット以外の人間も生きている。もちろん物語の中で、登場人物たちはハムレットの“宿命”に巻き込まれていきます。そのとき、ハムレットは「渦である」のか「渦になる」のか。その認識の違いはとても大きい。今回のプロダクションがどちらを採択したかは明確ではないけれど、少なくとも結果は「前者」に見えました。ほぼ最初から、ハムレットのペースですべてがコントロールされている印象です。

さっきも書いたけど、ジュードが構築しようとしたハムレットは、エネルギーに溢れ力強い。そしてスピーディ。一貫してジュードは行動するハムレットでした。それはそれで全然悪くない。ジュードの芝居に関しては、個人的な贔屓目を差し引いても(笑)、どちらかといえばかなり良い印象を持ちました。舞台出身だし、立ち居振る舞いも悪くない。アップテンポでどんどん進むから、ジュード目的のティーンの女の子たちの大群にとって(実際ものすごくたくさんいました)、もしこれが人生で初めて観る『ハムレット』だとしたら、すごく面白かったのかもしれないですね。

ただ僕個人の別のレイヤーで考えたとき、ジュードは根っからのシェイクスピア俳優か?と問うたら、そうではない、と答えるかもしれない。

これも僕自身の考えに過ぎませんが、俳優と演出家がセリフを立体化するとき、表現にいたる流れが、シェイクスピアの場合ちょっと特殊だと思うんですよ。たぶん理想はこうです。

 

【想いの知覚→言語化→行動化】

 

想いは、意識的か無意識的かに関わらず、知覚されたらまず言葉に変換される。その言葉に導かれるようにして、次に行動が発生する。これが意外と厳密にできている。「行動規範」とあえて呼んでもいいぐらい。厳密さ=縛りは、そこに立脚することで、抵抗と反発を、その先に自由と自在さを生む。ということは、シェイクスピアにおける“最初”の絶対的な「縛り」は、この表現の流れだと思うわけです。まずは言葉がたちあがる、ということ。僕がシェイクスピアの芝居を観て「素晴らしい」と感じる時って、まず間違いなく、言語表現の自由さ・自在さがあるときなんですね。言葉はセリフとして約400年も前に書かれていてそれを私たちは知っているにもかかわらず、あたかもその人物がここで初めてその言葉を使い、私たちはその言葉を今初めて聴いたかのように感じる。常に新鮮に生まれる、その瞬間瞬間に。この感覚が、シェイクスピアの言葉の醍醐味だと思うわけです。

その点、ジュードの芝居は、「行動規範」はやや外れています。ジュードの表現の基本的な流れは、

【想いの知覚→行動化→(ほぼ同時、もしくはやや遅れて)言語化】

となってた。そうなると、シェイクスピアの言語がその瞬間に生まれる新鮮さはやや失われることになる。何故なら、僅か一瞬早い行動が、その言語を先に説明してしまうから。・・・もちろん、何度も書くけれど、これは個人的な好みの問題なので、絶対的価値ではありません(たぶん僕自身にとっても)。行動化するハムレットが生むドラマのスリリング感を想像することはできるし、それはきっと興奮するだろうとも思うのです。でもジュードの芝居から、言葉が生まれる瞬間を味わう醍醐味を見出すことができなかった。ということは言える。そして【エネルギーに溢れ力強くスピーディ】な行動するハムレットが、プロダクション全体のトーンを確定するのに影響し過ぎた、ということ。無意識的にハムレットが「渦である」ことを選択し、そのペースですべてが進んでしまっていた。その上、ハムレットの周りにいる人物たちをきちんと描くことができなかった。そのあたりが大きな問題になってくる気がしました。

『ハムレット』の面白さってそれはそれはたくさんあるんだけれど、登場人物にかかわることで言えば、深い疑念の中を彷徨うハムレットと純粋無垢で汚れを知らないオフィーリア以外のほぼ全員が、何らかの形で「後ろ髪を引かれるような宿命的な想いや罪」を背負っている、っていうことだと僕は思ってるんですね。それらは、今この時点ではそれぞれの中に秘められていて誰にも見えない。が、疑念に駆られた行動するハムレットを前にしてたとき、それらが公に曝け出されていくこと畏れ、恥じる。だからこそ、それらを隠蔽したり抵抗したりするような反発的な行動に彼らを駆り立てるわけだ。この悲劇はハムレットだけの悲劇ではないのです。この国(あるいは社会)の宿命的な悲劇であり、だからこそ、フォーティンブラスは「このような惨状を目にしたことがない」と言うのだし、だからこそ、ホレイショーはこの悲劇は語り継がれるべきものだと語り部の役割を担うことになる。みんながみんなこの宿命的な悲劇の一端を担っている。もちろんハムレット自身もこの悲劇の単純な被害者ではありません。運命に翻弄された加害者にもなる。戯曲上唯一被害者と言えそうなのが、純粋であるが故に2つに引き裂かれ精神を病みやがて自死を遂げるオフィーリアで、だからこそ彼女はシェイクスピア作品の中でも特別に印象的な存在と言えるわけです。

で、この「みんながみんな後ろ髪を引かれる」感じを具体的にどう表現するかは別にして、ちいさな雪の玉が雪積もる坂道を転がりながらスピードを増し大きさを増していくように、転がり始めた運命は、誰にも止めることなどできない大きな悲劇へと向かっていく・・・という、その“流れ”をつくることが演出には必要。この流れが全然感じられなかったんですよね、今回の公演では。最初から最後まで同じテンポとペースで走ってった感じ。ごくごく一般的な言葉で言えば、“メリハリ”がない。メリハリって、俳優個々の作業でもあるし演出による全体マターのこともあるけれど、まあいずれにしても、なかった。だから最後5幕にたどり着く頃にはちょっと飽きてしまったところもあって。墓掘りのシーンがラストスパートの前の息抜きにもなりゃしない。っていうか、あの墓掘りのシーンで全然笑えないのって超稀だよなあ。。。これは僕だけじゃなくて、会場全体がイマイチ笑えない、みたいになってたもん。

終始一貫してたのは「ジュード・ロウのハムレットをみせる」っていうことだけ。ディテールの積み上げも、全体として「なぜ今ハムレットか?(ジュード・ロウのスケジュールが空いたことを除いて?)」に対するヴィジョンも無くて。そしてですね、ジュード以外の他の俳優をきちんと演出していない、ハムレット以外の登場人物たちが「活きて」描かれていないということが一番大きな問題のように思いました。少なくとも僕には。

いろいろな形で指摘されるように、『ハムレット』は『モナリザ』並に有名のわりにじゃあ完璧な戯曲かというとそんなことはなく、むしろ欠陥の多い戯曲ですよね。今回演出が基本的に主張が薄い(というか無策)であったゆえに、逆説的に、戯曲の構造がいかにイビツで歪んだものであるかが、実にものの見事に分かった。謎だらけですよ、『ハムレット』って。どうしてこの場面のあとにこれがくるのか、なぜ彼らはまるで何もなかったかのようにその場にいられるのか、などなど。ハムレットがオフィーリアに「尼寺へ行け!」と激しく罵ったのち(違う解釈も表現もできるけれど、今回の公演ではジュードは間違いなく彼女を罵ってました)、どうしてオフィーリアは何事もなかったかのように「ゴンザーゴ殺し」の場面で普通にあの場所に存在していられるのか、とか。そういう、構造上の矛盾がたくさんあるわけです。演出家が『ハムレット』に取り組むとき、これらの構造的な矛盾や欠陥をどのように補い修正し、手を加え、強靭な物語として“組み換え”(←この感覚はやっぱり不可欠だと思う)ていくかが問われる。戯曲じたいにあまりにも多くの謎があるだけに、たくさんの俳優が「俺のハムレット」を創り続けてきたように、演出家も「俺の『ハムレット』」を創り続けられる。それが『ハムレット』の最大の【魅惑】であって、それが400年間生存し続けてきた一番大きな理由だと、思うわけです。

だからね、やっぱりこの公演は観てよかった(笑)。人間ってどこからでも学ぶことができるってことです、あなたがそれを望みさえすれば。プロダクションとしえは確かに僕は良くなかったと思うけど、一方でかなり多くのことを発見し、あるいは再認識できたと思う。

『ハムレット』を取り上げるとき、その構造上の欠陥や矛盾といった“謎”に対して、演出家はどのような形でそれを解決するのかが問われる。風穴をあけなければならない。そのちいさな穴を通して、観客の想像力が無限にひろがっていくように。

 

<2009年6月13日のブログより>